【概要】二大深層思想が交錯する極致:自我の脱落から開かれる「生々しき妙有の戯れ」
※ 本対話録は、前作『存在・無・覚醒の深層哲学』と一部主題や世界観を共有しておりますが、本作では20世紀比較哲学の至宝である井筒俊彦の主著『Sufism and Taoism: A Comparative Study of Key Philosophical Concepts』に焦点を絞り、イスラーム神秘主義(イブン・アラビー)と古代中国タオイズム(老子・荘子)の構造的照応をさらに精密かつ立体的に解明したものです。
歴史的交流のなかった二大思想がなぜ、世界観を駆動する二つの枢軸(「絶対者」と「完全なる人間」)、反本質主義と存在の第一性、そして「宇宙の風(天籟)」という動的流動において奇跡的に一致するのか。日常意識の遠心運動(坐馳)を止める「心斎」、外天下・外物・外生の三段階にわたる脱落の深化、そして虚無を突き抜けて「山はやはり山である」と日常世界を無何有の郷として生き直す「生存(Baqā')・妙有・逍遥遊」まで、覚醒の全工程を明晰に論証します。
井筒俊彦先生の代表的英文著作『Sufism and Taoism: A Comparative Study of Key Philosophical Concepts』について、その全体構成、核心的テーマ、そして歴史的影響関係を超えた比較方法論の真髄について詳しく解説してください。
対話 1:『Sufism and Taoism』の全体構成と共時的比較哲学の金字塔
井筒俊彦の世界的名著『Sufism and Taoism: A Comparative Study of Key Philosophical Concepts』(『イスラーム哲学における存在論的構図:スーフィズムとタオイズム』)は、イスラーム神秘主義の巨星イブン・アラビー(Ibn 'Arabī, 1165–1240)と、古代中国のタオイズム(老荘思想)の代表的思想家である老子・荘子の形而上学体系を架橋した、比較形而上学の金字塔です。
1. 全体構成と厳密な比較方法論
本書は、歴史的・地理的に直接の交流が一切なかった二つの思想体系を比較するにあたり、表面的な類似の羅列や恣意的な思いつき(浅薄な対比)を徹底的に排除するため、極めて厳密な三部構成を採用しています。
- 第1部:イブン・アラビーの存在論(Part I: Ibn 'Arabi)
イブン・アラビーの主著『知恵の飾環(Fuṣūṣ al-Ḥikam)』などを精密に原典解読し、イスラーム形而上学における「純粋存在(wujūd / 有)」、神の自己顕現(tajallī)、神の永遠の知識における原形(a'yān thābitah)、神名(asmā')などの主要概念構造を、一切の先入観なく独立して解明します。 - 第2部:老子と荘子のタオイズム形而上学(Part II: Lao-Tzu & Chuang-Tzu)
『老子(道徳経)』および『荘子』内篇のテキスト分析を通じ、言語的分節化批判(反本質主義)、道の自己展開、渾沌(hun tun)、坐忘(tso-wang)、物化(wu hua)などの概念体系を同じく独立して浮き彫りにします。 - 第3部:構造的比較分析(Part III: Comparative Analysis)
前半2部で客観的に抽出された概念構造を突き合わせ、時空を超えた哲学的対話(メタ歴史的対話 / meta-historical dialogue)として、両者の共通基盤と構造的照応(One-to-one correspondence)を包括的に総括します。
2. 世界観を駆動する二つの枢軸:「絶対者」と「完全なる人間」
井筒は、スーフィズムとタオイズムの双方が、「絶対者(The Absolute)」と「完全なる人間(The Perfect Man)」という二つの極(ポオル)を軸にして展開されていることを明らかにしました。
| 枢軸(極) | スーフィズム(イブン・アラビー) | タオイズム(老荘思想) | 共通の哲学的特質 |
|---|---|---|---|
| 絶対者 (The Absolute) |
真理・実在(Ḥaqq)、純粋存在(Wujūd)、不可知の本体(Dhāt al-wujūd / Ghayb al-ghuyūb) | 道(Tao)、無名(Nameless)、無(Non-Being)、玄の又玄(Hsüan chih yu hsüan) | 人間の言語や理性的概念を完全に超越した無分節な不可知の深淵(Mystery of Mysteries) |
| 完全なる人間 (The Perfect Man) |
インサーン・カーミル(al-Insān al-Kāmil) | 聖人(shēng-jên)、真人(chên-jên)、至人(chih-jên) | 私的自我(エゴ)を滅却することで絶対者と合一し、全宇宙の自己顕現を歪みなく映し出す「透明な鏡」 |
3. 存在の多層的自己顕現と「一と多」のパラドックス
絶対者は単なる静止した沈黙にとどまりません。自らを多種多様な現象世界に向けて階層的に開示・流露(tajallī / 生起)させていきます。
- スーフィズムの階層:不可知の本体(Dhāt) → 絶対的一性(Aḥadīyah) → 多の一性(Wāḥidīyah / 原形 a'yān thābitah) → 象徴・イマージュ界(‘Alam al-mithāl) → 現象界(Mawjūdāt)。
- タオイズムの階層:玄(Mystery) → 無(Non-Being) → 一(One) → 有(Being) → 万物(Wan-wu)。
現象界の事物は独立した実体を持たず、唯一の絶対的実在が自らを限定した仮の姿にすぎません。したがって世界は「一でありながら多、多でありながら一」という対立物の合一(coincidentia oppositorum)として把握されます。
✦ 井筒比較哲学の金字塔的意義
井筒俊彦は、アラビア語の「存在(wujūd)」という概念軸を媒介に据えることで、東洋の多様な思潮を単一の有機的意味体系(Semantic field)として共時的に再編成できることを実証しました。東西の対話を「過去の影響関係の考証」から「普遍的構造の探求」へと高めたのです。
歴史的・地理的に直接の交渉がなかったイスラーム神秘主義(スーフィズム)と古代中国のタオイズム(老荘思想)において、井筒先生が解明された「7つの形而上学的共通点」について、その深層構造をわかりやすく教えてください。
対話 2:スーフィズムとタオイズムを貫く7つの構造的照応
井筒俊彦は『Sufism and Taoism』において、異なる文化・言語的土壌に育まれた二つの体系が、人間の意識と存在の深層において驚くべき同型性(アイソモーフィズム)を持っていることを論証しました。その核心となる7つの共通視座は次の通りです。
1. 思想体系を駆動する二つの枢軸(「絶対者」と「完全なる人間」)
両思想は、言葉を超えた根源的根拠である「絶対者(Ḥaqq / Tao)」と、自我を消滅させてその絶対者を地上で完全に鏡のように映し出す「完全なる人間(al-Insān al-Kāmil / 真人)」という二つの極を緊張の軸として世界観を構築しています。
2. 存在の多層的自己顕現(Tajallī)の階層性
究極の実在は、無分節の暗黒から一挙に現象界に至るのではなく、幾重もの意味の次元を通過して自己を開示(流露)します。絶対的不可知の深淵(Dhāt / 玄の又玄)から、分化の兆し(Aḥadīyah / 無)、潜在的イデアの領域(Wāḥidīyah / 一・有)、そして目に見える現象の多(Mawjūdāt / 万物)へと至る多層構造(Multistratified structure)が完璧に対応しています。
3. 反本質主義(Anti-Essentialism)と「存在(Wujūd)」の第一性
事物がそれ自体として固定的・客観的な境界線(本質 / māhīyah)を持っていると信じる素朴な実在論を両者ともに鋭く退けます。客観的に固まった「モノ」が最初にあるのではなく、純粋な「存在することの活動(wujūd / Tao)」こそが唯一の実在であり、個別事物は存在の仮のあらわれ(自己顕現・物化)に過ぎません。
4. 動的流動としての存在(「宇宙の風」と「存在の息吹」)
存在は静止した硬い物質ではなく、絶え間ない動的プロセスです。荘子が描く、あらゆる事物の空洞を鳴らし抜ける「宇宙の風(天籟 / t'ien lai)」は、イブン・アラビーにおける「存在の流露(sarayān al-wujūd)」や「慈悲の息吹(nafas al-raḥmānī)」と完璧に響き合います。世界は毎瞬新しく創造され直している(khalq jadīd)のです。
5. 主観の解体プロセス(「ファナー:Fanā'」と「坐忘:Tso-wang」)
この存在の真実に目覚めるためには、日常の主客対立意識と自我の殻を打ち破る実存的転換が不可欠です。スーフィズムの「自我消滅(Fanā')」と、老荘の「坐忘(tso-wang)」および「心斎」は、表層の分別知を解体して精神を完全な「虚(hsü)」へと導くプロセスとして一致しています。
6. 現象界への還帰と絶対的自由(「バカー:Baqā'」と「遊:Yú」)
自我の消滅は終着点ではありません。自我が滅却された後に訪れる「現象界への還帰」(スーフィズムの生存(Baqā')、荘子の逍遥遊(yú))において、人間は再び日常の「多」の世界を生きながら、そのすべてが唯一の存在の光輝く顕現であることを観照し、絶対的自由を謳歌します。
7. 存在論的無差別性(「慈悲:Raḥmah」と「不仁:Pu-jen」)
神があらゆる万物に差別なく存在を付与する活動を、イブン・アラビーは「無条件の慈悲(raḥmah)」と呼びました。一方、老子は「天地は不仁なり、万物を以て芻狗となす」と語り、道には人間的偏愛がないことを述べました。井筒は、この二つの表現がともに「人間的な情緒や道徳的選好を超越し、全万物に平等に注がれる根源的存在活動の絶対的公平性」を指し示していることを明らかにしました。
スーフィズムの「Fanā'(ファナー:自我消滅)」と老荘思想の「坐忘(tso-wang)」について、日常の自我意識がどのように解体され、主観と客観の境界が崩壊していくのか、その深層メカニズムを比較してください。
対話 3:自我の消滅 ―― ファナーと坐忘における主客の同時解体
サンスクリットの「ニルヴァーナ(涅槃)」や禅の「身心脱落」に照応するスーフィズムの Fanā'(ファナー) と、老荘思想の 坐忘(tso-wang) は、異なる風土にありながら、人間の意識の脱分節化において完璧な並行関係を示しています。
1. スーフィズムにおける「Fanā'」の深層構造
- 表層自我の殻の破砕:人間が「私」と呼ぶ日常的自我(nafs)は、存在の海から個体を隔離する硬い殻です。唱念(dhikr)や集中瞑想(tawḥīd)の極致においてこの殻が破砕されると、個的意識は根源的な「存在の一性(wujūd)」へと帰一します。
- 主客の同時的崩壊:主観の側で自我が消滅すると、それに相応して外界の事物に貼り付けられていた不透明な境界線(本質 / māhīyah)も一瞬で崩壊します。世界は個別的な事物の集積であることをやめ、無分節な全一性(Jam')へと還元されます。
- 「消滅の消滅(Fanā'-ye Fanā')」:井筒が強調するのは、15世紀の哲学者ジャーミーらが指摘した「消滅の消滅」です。「私は自我を消滅させた」という反省的意識が残っている限り、それは未だ絶対者以外の対象に執着している段階にすぎません。「消滅したという意識」すら完全に脱落して初めて、純粋な合一が完成します。
- 三段階の昇華:
- Takhalluq(属性の消滅):人間的弱小属性が消去され、神の属性が宿る。
- Tahaqquq(本体の消滅):個人的本質が消滅し、絶対的本体と一体化する。
- Ta'alluq(定着):自我消滅によって獲得された聖性(walāyah)に確固として留まる。
2. 老荘思想における「坐忘」の深層構造
『荘子』における坐忘とは、心が外界へ向けて暴走する日常的状態「坐馳(坐しながら駆け回る)」に対する徹底的な脱落の実践です。
- 「坐馳」から「心斎(心の断食)」へ:身体は座っていても、心が外界の欲望や概念的判断を追い回す坐馳を止めるため、五感や知性の出口を塞ぎます(「塞其兌、閉其門」)。耳で聴くのをやめ、心(イマージュ)で聴くのをやめ、心を完全な「虚(hsü)」にして純粋な気(ch'i)で聴く「心斎」へと意識を求心的に沈降させます。
- 枯れ木と死灰の境地:荘子は坐忘を「四肢体衝を払い、聡明を解き、形を去り知を棄てて、大通(道)に同化すること」と定義します。このとき外見は「形は槁木(枯れ木)の如く、心は死灰(冷たい灰)の如し」となります。
- 主観の消滅と対象の融解:「私」という観察の中心軸が消失すると、外界の対象(物)もその固着した境界線を失い、一切の対立と障壁のない「大虚」や「渾沌」へと溶け合います。
✦ 単なる「気絶」との絶対的相違
自我の消滅(Fanā' や 坐忘)は、気絶や意識不明の麻痺状態ではありません。むしろ、主客の葛藤が消え去った後に現れる、鏡のように澄み切った「超意識(Supra-Consciousness / 常知)」の目覚めであり、絶対者の創造的息吹が抵抗なく通り抜ける「虚(空間)」となることです。
自我消滅(Fanā' や 坐忘)を潜り抜けた覚醒者が、再び現象世界へ戻ってくる「還帰(Baqā' / 逍遥遊 / 妙有)」のプロセスについて、具体的世界認識の質的変容をスーフィズム、禅、老荘の視点から解明してください。
対話 4:現象界への還帰 ―― バカー、妙有、そして逍遥遊の歓喜
東洋の形而上学において、自我の消滅や空への沈降はゴールではありません。真の悟りの完成は、一度無分節の深淵をくぐり抜けた後に、「新しく生まれ変わった眼(変容した意識)で日常世界を再肯定・再発見する還帰の瞬間」にあります。
1. 還帰の三段階構造(弁証法)
井筒俊彦は、この認識の変容を青原惟信の禅的命題や『金剛経』の即非の論理と重ね合わせて定式化しました。
- 第1段階(素朴実在論):日常の二元論的意識。《\(A \text{ is } A\)》――「山は山、水は水」。事物はお互いを遮断する硬い本質として経験される。
- 第2段階(真空・自我消滅):無分節への没入(Fanā' / 坐忘 / 身心脱落)。《\(A \text{ is non-}A\)》――「山は山にあらず、水は水にあらず」。自我も事物も境界を失い、無や空へと融解する。
- 第3段階(妙有・生存):現象界への還帰(Baqā' / 逍遥遊 / 妙有)。《\(A \text{ is (again) } A\)》――「山はやはり山であり、水はやはり水である」。
第3段階で眼前に甦る「山」は、第1段階の退屈で不透明な概念物ではありません。無分節な絶対者(真空)の全エネルギーが、その一瞬・その一場所に凝縮して立ち現れた「光輝く奇跡(妙有)」として再生起するのです。
2. 各伝統における還帰の様相
スーフィズムにおける『Baqā'(生存・持続)』
自我が滅びた跡に、神の存在のうちに再確立された「宇宙的自己」として世界へ戻ります。個別事物はもはや硬い「物」ではなく、絶対者の神名や属性を互いに映し出し合う「透明な鏡」となります。自らの日常的営みすら「私が動いている」のではなく、「神の意志と活動が私を通じて直接現れている」という境地に達します。
禅における『妙有』と「対立物の合一」
洞山良介の詩「銀碗に雪を盛り、明月に白鷺を隠す」が示すように、白と白(無分節な一性)の只中に、雪と銀碗(分節された多)がそれぞれ固有の尊厳を保ちながら重なり合う、「一にして多、多にして一」の透徹した風景が観照されます。
老荘思想における『物化』と『逍遥遊』
荘子の「胡蝶の夢」が語るように、自他の固定的な垣根が消え失せた世界では、万物の移り変わり(生と死、富と貧、栄と枯)が、ただ「道(根源的存在)の絶えざる自己変容(物化)」として美しく受け入れられます。日常のありふれた生活空間そのものが何もない理想郷(無何有之郷)となり、一歩一歩の歩行がそのまま大空を飛翔する「天上の旅(逍遥遊=遊)」となるのです。
✦ 還帰における世界認識の3大質的転換
- 存在論的透明性(Ontological Transparency):事物が不透明な障害物であることをやめ、その奥にある無分節な絶対者を透かし見せる。
- 主客不二の動的生起(Field of SEE):見る主体と見られる客体が解け合い、「人が竹になり、竹が人になる」動的な意識の場として世界が創発する。
- 日常性の絶対的肯定(「柳は緑、花は紅」):超越的真理はどこか別の場所にあるのではなく、「お腹が空けば飯を食べ、寒ければ服を着る」という生々しい日常そのものが絶対者の完結したあらわれとして祝福される。
日常の自我(エゴ)が外界を追いかける「遠心運動(坐馳)」と、それを食い止めて内面へ逆転させる「求心運動」のメカニズムについて、さらに掘り下げて論じてください。
対話 5:遠心運動から求心運動へ ―― 表層自我の構造と覚醒の力学
人間はいかにして自らを言語と概念の牢獄に閉じ込め、またいかにしてそこから脱出するのか。井筒俊彦は、意識の運動方向という力学的な視点から、日常自我の構造と覚醒のプロセスを明晰に解剖しました。
1. 表層自我の「遠心運動(坐馳)」と「成心」
- 個別化の軸としての自我:日常意識における表層の「自我(エゴ / chi)」は、身体的・精神的な要素を統合する中心軸であり、この軸を中心として外界の事物に個別の境界線と名辞を与えます。
- 遠心的暴走(坐馳):自我は本能的な知解欲、比較、執着によって、常に外界の刺激や未来・過去の妄念を追いかける「遠心運動」を行っています。身体は静かに坐っていても心が激しく駆け回るこの状態を、荘子は「坐馳」と呼びました。
- 「成心(既成の心)」の支配:遠心運動が習慣化・凝固すると「成心(既成の判断基準・固執した偏見)」となり、善悪・正邪・自他といった二元論的対立を精神に強制し、万物の原初的一性(Unity)から人間を完全に孤立させます。
2. 求心運動への転換と「心斎」
この遠心的暴走を断ち切り、意識のベクトルを自らの最深部へと180度反転させる運動が「求心運動(Centripetal Movement)」です。
五感の出口を閉じ、感覚や知的概念による把握を放棄して、精神を徹底的に純粋な「虚(空無)」に保つ「心斎(心の断食)」の実践により、意識は表層のざわめき(A層)から、意味の深層(B層)へと垂直に沈降を始めます。
3. 身心脱落から「脱落身心」へ
求心運動が極点に達したとき、主体(観測者)と客体(対象)の双方が同時に崩壊する「身心脱落(shin jin datsu raku)」が生じます。そして、この無の深淵において偽りの自我が死に絶えたとき、無分節な絶対者そのものが自らの生きた表現として現象界を創発させている「脱落身心(datsu raku shin jin)」、すなわち真の宇宙的自己(Cosmic Ego)への再生が果たされるのです。
『荘子』大宗師篇において聖人・女偊(じょぐ)が説く「坐忘の三段階(外天下・外物・外生)」の具体的な日数、脱落の手順、そしてその直後に訪れる開眼のプロセスについて詳細に解説してください。
対話 6:坐忘の三段階 ―― 女偊の教理における段階的脱落と連続的開眼
井筒俊彦が『Sufism and Taoism』において最も緻密に分析したテキストの一つが、『荘子』大宗師篇に登場する聖人・女偊(Nü Yü)が卜梁倚(Pu Liang I)に授けた「坐忘の三段階(段階的外化・脱落の教理)」です。
1. 坐忘の3段階の脱落プロセス
| 段階 | 実践ステップ | 所要日数 | 脱落の対象とメカニズム |
|---|---|---|---|
| 第1段階 | 外天下 (Wai-t'ien-hsia) |
3日間 | 客観的マクロ世界の忘却:自分から距離的に最も離れている外の世界全般(社会秩序、天下、人間関係)への捕われを遮断する。客観世界は自我にとって「外側」にあるため、最初に意識から外化することが比較的容易である。 |
| 第2段階 | 外物 (Wai-wu) |
さらに7日間 (計10日目) |
身近な具体的事物の忘却:日常生活で直接接触し、愛着や生存欲求を結びつけやすい身近な生活環境、道具、事物を意識から消去する。生活に密着しているため天下よりも忘却が難しく、より深い内的な沈降が必要とされる。 |
| 第3段階 | 外生 (Wai-sheng) |
さらに9日間 (計19日目) |
自己生命・エゴの忘却:自我の最も深奥に根を張る自らの「生命存在」「身体的・精神的アイデンティティ」そのものを外化・脱落させる。これにより、主観と客観の双方における不透明な境界線が完全に消失する。 |
2. 「外生」の直後に生じる連続的開眼(Illumination)
自らの生命すら「外」に置いた(外生)瞬間、意識は日常の二元論的枠組みから完全に解き放たれ、連鎖的な霊的開眼が突如として生起します。
- 朝徹(Ch'ao-ch'e):朝の太陽の光が射し込むような、透明で明徹な霊的視力(明 / ming)が開ける。
- 見独(Chien-tu):相対的な対立を超えた「唯一無二の絶対者(道)」を直接観照する。
- 無古今(Wu-ku-chin):過去・現在・未来という時間の差別相が消滅する。
- 入於不死不生(Entering into no-death and no-life):生と死が分化する以前の、根源的で無分節な領域(道・大通)へと完全に同化・一体化する。
『荘子』の「坐忘の三段階(外天下・外物・外生)」と、イスラーム・スーフィズムの「三段階のファナー(行為・属性・本体の消滅)」との精密な比較対応構造、およびそこから導かれる存在論的結論について総括してください。
対話 7:意識沈降の普遍的マトリクス ―― 坐忘と三段階ファナーの構造的照応
井筒俊彦の比較形而上学が達成した最大の白眉の一つは、タオイズムの「坐忘の3段階」と、スーフィズム(イブン・アラビーやジャーミー)の「Fanā'(自我消滅)の3段階」が、意識の脱分節化(De-articulation of consciousness)の普遍的パラダイムとして完璧な1対1の対応関係にあることを解明した点です。
1. 3段階の構造的照応マトリクス
主観(意識)の境界線が解体することと、客観(事物)の固形化した本質(māhīyah)が解体することは完全な同時現象です。両者の沈降プロセスは次のように精密に符合します。
| 脱落の深度 | タオイズム(荘子・女偊) | スーフィズム(イブン・アラビー学派) | 存在論的解体の内容 |
|---|---|---|---|
| 第1段階 (外的因果の遮断) |
外天下 (天下・大宇宙の忘却) |
行為の消滅 (Fanā' al-af'āl) |
社会や外的現象世界における「個別の因果作用・個人的行為」という認識の消滅。すべての出来事は唯一の絶対者の動的活動にすぎないことが見抜かれる。 |
| 第2段階 (個別属性の解体) |
外物 (身近な事物の忘却) |
属性の消滅 (Fanā' al-ṣifāt) |
個別事物の持つ有限な属性(色・形・固形性)の消滅。事物は独立した本質を持たず、絶対者の属性の仮の投射(象徴界・イマージュ界)へと透化する。 |
| 第3段階 (自我本体の消滅) |
外生 (自己生命・自我の忘却) |
本体の消滅 (Fanā' al-dhāt / 消滅の消滅) |
個人の相対的実体そのものが、無分節な絶対的存在の暗黒(本体)のうちに溶解。「私は消滅した」という意識すら消滅し、純粋合一が成る。 |
| 直後の開眼 (覚醒の成就) |
朝徹・見独・無古今・入於不死不生 | 開顕(Kashf)・真の一体化(Tawḥīd)・時間の超越 | 現象のベールが剥ぎ取られ、唯一無二の絶対者(道 / 存在)が直接観照され、永遠が「いま・ここ」に凝縮する。 |
2. 比較哲学における存在論的帰結
なぜ人間にとって、このような徹底的な「脱落」が必要とされるのでしょうか。井筒俊彦は二つの決定的な理由を挙げています。
- 言語的分節化の不透明な牢獄の解体:
日常意識において人間は、言語(名)によって世界を恣意的に区切り、事物の背後に虚構の本質(māhīyah)を想定する「本質主義」に囚われています。坐忘やファナーは、この言語の網の目を一度根底から脱落させ、無分節な生の現実に立ち返るための「形而上学的還元」です。 - 「Baqā'(生存)」と「遊(逍遥遊)」への必須の踏み台:
一度自我の死(無分節の深淵)をくぐり抜けることで、人間は再生し、新しく変容した眼をもって現象界の「多」へ還帰します。自我を滅却した後に再発見される世界は、もはや苦痛や執着の場ではなく、「唯一なる絶対者が無限の多様性として自らを遊戯・顕現させている光り輝く場(妙有 / 逍遥遊)」として祝福されることになるのです。
✦ 結び:言葉の極限から「遊」の境地へ
井筒俊彦が遺した『Sufism and Taoism』の探求は、学問的な比較研究の枠を遥かに超え、人間が自ら作り出した言葉の檻を破り、絶対的自由の境地(逍遥遊)を生きるための実践的形而上学の地図です。自我を脱落させ、無分節の根源に触れた者にとって、日常の一瞬一瞬は、絶対者が自らを開示する尽きることのない奇跡の舞台となります。
主要参考文献・底本
- 『Sufism and Taoism: A Comparative Study of Key Philosophical Concepts』(Toshihiko Izutsu, University of California Press / 邦訳『イスラーム哲学における存在論的構図:スーフィズムとタオイズム』):イブン・アラビーと老荘思想の共時的構造化を成し遂げた主著。
- 『意識と本質 ―― 精神的東洋を索めて』(井筒俊彦 著、岩波文庫):言語的分節化、意味の深層、本質直観のドラマトゥルギーを論じた代表作。
- 『東洋哲学の構造 ―― エラノス会議講演集』(井筒俊彦 著、慶應義塾大学出版会):主客相応、意識の多層構造、坐忘と曼荼羅理論。
- 『荘子』(内篇:大宗師篇、斉物論、逍遥遊):女偊の教理、坐忘、心斎、物化の原典。
- 『知恵の飾環(Fuṣūṣ al-Ḥikam)』(イブン・アラビー 著):スーフィズム存在論の至高の古典。